「悪の君は、神の民が天の都に向かって進む旅のその一歩ごとに妨害をする。教会の全歴史において、改革が行われるときには必ず重大な障害があった。」―各時代の大争闘下巻102ページ
―再臨の前兆―
「日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう。そのとき、大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう」(マルコ 13:24~26)。
「黙示録の記者も、再臨に先だつ第一のしるしをこのように描写している。『大地震が起こって、太陽は毛織の荒布のように黒くなり、月は全面、血のようにな』った。(黙示録 6: 1 2 )」―各時代の大争闘上巻391ページ
1755年―リスボンの大地震
「人々の恐怖は、言葉では表現できないほどだった。だれも泣かなかった。泣くどころではなかった。彼らは恐怖と驚きに狂乱状態となって、あちこち走りまわり、顔や胸を打って、『あわれみたまえ!世の終わりだ!』と叫んでいた。母親は子供たちを忘れて、十字架の像を背負って走り回った。多くの者が教会に避難したことが悲惨を招いた。聖体を取り出してもむだであった。哀れにも人々は祭壇にしがみついたが、むだであった。聖画像も司祭も人々も、もろともに埋没してしまった。」この恐るべき日に生命を失った人の数は、9万と推定されている。」―各時代の大争闘上巻394ページ
1780年―暗黒日
「この種の現象として、他に類例がなく、最も不思議で説明することができないものは・・・1780年5月19日の暗黒日である。これは、ニュー・イングランド地方の空全体をおおった不可解な暗黒である。・・・モーセの時代以来、これほどの濃さと広さと時間的長さをもった暗黒は、記録されていない。目撃者によるこの事件の描写は、その成就の2500年前の預言者ヨエルが記録した主の言葉のくり返しに過ぎない。『主の大いなる恐るべき日が来る前に、日は暗く、月は血に変わる』(ヨエル2:31 )。」―各時代の大争闘上巻393,394ページ
1831年―ウイリアム・ミラー、再臨メッセージを公に伝え始める
「聖書の権威に疑惑を抱きながらも、なお真理を知りたいと心から望んでいた、高潔で誠実な一農
夫が、キリスト再臨の宣布において指導的な役割を果たすために、神によって特に選ばれた。」―各
時代の大争闘下巻1ページ
ウイリアム・ミラー(右)
1833年―大落星
「星は空から落ち」る(マタイ24:29)との預言の成就。
大落星(左)
ウイリアム・ミラー、彼の属するバプテスト教会から説教
する許可を得る。
1844年(3月)―再臨信徒、最初の失望―
1844年(7月)―第二天使の使命・夜中の叫び
「約5万人が教会から離脱する。」
★1844年(10月22日)第三天使の使命、調査審判の開始
同年12月―エレン・ハーモン、最初の幻を受ける。(右)
1861~65年―南北戦争
「聖書を信仰と実践の原則とする、セブンスデー・アド
ベンチストの名を持つクリスチャンの教団として、私たち
の教えは、戦争の精神とまたそれに参加することに反対す
ることを明らにする。・・・戒めの第四条は、主の第七日
目に何のわざをもしてはならないことを要求し、また第六
条は命を奪うことを禁止している。そして兵役の義務を行
っている間は、これらの戒めを守ることはできないと私た
ちは考える。わたしたちは、これらの原則と一致してきた
のである。それゆえに、私たちの民は兵役に参加すること
を願わないのである。私たちの教団の出版物も一つとして
武器を取ることを擁護したり、奨励したりはしない。徴兵
されるとき、原則を犯すよりも300ドルの罰金を払うこ
とに満足するものである。」(1864年8月3日、John Byington, J.N.Loughborough, Geo.W.Amandon,(Signed),Ge-neral Conferenced Committee)
「神の特別な宝となる民は、信仰のあらゆる原則に逆らう複雑な戦争に加わることができないことを私は示された。軍にあっては、真理に従うと同時に上司の命令に従うことはできない。」―教会への証1巻361ページ
1863年 世界総会組織―
信徒3,500名。初代総理、ジョン・バイトン。
★1888年―ミネアポリス世界総会―
「キリストわれらの義」、「黙示録18章の使命」開始
「主はその大いなるあわれみをもって、ワゴナー長老と
ジョーンズ長老を通して、きわめて尊い使命をその民に与
えられた。この使命は、全世界の罪の犠牲であられる高め
られた救い主を世界にもっとはっきり紹介するものであっ
た。それは保証人であられるキリストを信じる信仰を通し
ての義を提示し、神のすべての律法への服従の中に明示さ
れているキリストの義を受け入れるように人々に勧めた。」
―牧師への証91,92ページ
・・・しかし、この使命は拒否された。
1892年の証―
「わたしは、ジョーンズとワゴナーがヨシュアとカレブ
と同様の立場に立っているのを見た。イスラエルの子らが
実際に石で斥候たちを打ったように、あなたがたは皮肉と
嘲りの石でこの兄弟たちを打ったのである。わたしは、あ
なたがたが真理であると知っていながら、故意にそれを拒
んだのを見たが、それはあなたがたにとってあまりにも屈
辱的であったので権威を保つことができなかったからであ
る。わたしはあなたがたの中のある人々が、テントの中で
この二人の兄弟の真似をし、あらゆる方法で嘲っているの
を見た。もしあなたがたがこのメッセージを受け入れてい
れば、わたしたちは、その日から2年後には、天国に入っ
ていたはずであることを見た。しかし、わたしたちは今、 E.J ワゴナー A.T ジョーンズ
荒野にもどって、40年の間とどまらねばならない。」―1892年5月9日,E.G.ホワイト、メルボルン
「『生ける宮』の中には、恐るべき異端のアルファが提示されています。オメガが続いてくるでしょう。そして神の警告に注意しない人々がこれを受け入れるでしょう。」―1SM, 200ページ
「欺かれてはいけません。多くの人々は、惑わす霊と悪霊の教えとに気を取られて、信仰から離れ去るでしょう。私たちはこの危険のアルファを、私たちの前に見ています。オメガは、きわめて驚くべき性質のものとなるでしょう。」―同上280ページ
1900年の証―
「ユダヤ人は天から与えられた救いのメッセージを拒絶したので滅ぼされた。今の世代の人々も神から驚くべき光と特権が与えられたにもかかわらず、光を拒むことによって滅ぼされた人々の道に従うのだろうか。」―教会への証6巻146ページ
1902年―バトルクリーク・サニタリウム、レビュー社の大火
「夜の幻の中で私は一人の天使が、炎のような剣をバトルクリークに差し伸べているのを見た。・・・最初は一方向を次には他方向を指しているように見えた。」―8T97ページ
1903年の証―
「表面は義の衣のようであっても、その裏には腐敗があ
った。品性は、暗くされた。忠実な町がどうして淫婦のよ
うになったのか。わが父の家は商品を売り買いする所と化
した。神の臨在と栄光とは去った。そのために力を失った
のだ。」―教会への証8巻249,250ページ
2月18日(バトルクリーク・サニ タリウムの大火)(左)
12月30日(レビュー社の大 火)(右)
1907年―ケロッグ博士の背信
1909年の証―
「1909年の総会を通して、出席者の心に成し遂げられていない一つの働きが成し遂げられるべきであった。・・・決定的な改革のためにこのような好機が与えられたにもかかわらず、罪の告白と心からの悔い改めの働きは成し遂げられなかった。」―セレクテッド・メッセージ2巻400,401ページ
1914年―第一次世界大戦開始
預言されたオメガの背信(上述1SM, 200,280ページ参照)がSDA教会に起こる。このオメガの背信とは「神の律法の違反に対する良心の自由」であった。つまり、SDA教会はこの時、信徒が戦争に参加し、武器をとり殺戮を行うという神の律法の違反を各信徒の良心に任せるというもっともらしい名目によって神に対して公に背信したのである。
1915年―E.G.ホワイト死去
「サタンは戦争を喜ぶ。なぜなら戦争は、魂の最悪の激情をかきたて、悪と流血に染まった犠牲者たちを永遠に葬り去ってしまうからである。国々が互いに戦争を起こすように煽動するのがサタンの目的である。なぜなら、そうすることによって人々の心を、神の日に立つ備えの働きからそらすことができるからである。」―各時代の大争闘下巻351ページ
―この時SDA教会はアメリカ独立戦争時の「非戦闘員」としての立場を変更した。
「・・・私たちはキリストに従う者として、神の力によってこのような時期に国家のために真実で忠実に私たちの兵役に服務しなければならない。・・・軍の服務に召集される時も喜んで兵役の義務を果たさなければならない。私たちの運命は神のみ手のうちにある。私たちが戦闘中に自分の命を失っても、私たちの命はキリストと共に神のうちに隠されていることを覚えるように。・・・・」―G.Dail ヨーロッパ支部書記(サイン)1914年8月2日
―しかし、1888年の「キリストわれらの義」を信じ、神の戒めに忠実な人々がいた。
「戦争が始まった時、SDAの教会は二つの異なった見解によって対立した。98%の信者たちは自ら聖書を調べ、武器をとって祖国を守るために良心的に参戦すべきだと信じ、また、安息日も国家の命令に従うべきであるとの結論を出し、ドイツの軍務大臣にその旨を報告した。その決定に従わなかった2%の信徒たちは、非キリスト教的であるとして、教会から除名された。・・・・」―ドイツ紙 Dresdner Neueste Nachrichten, April 2,1918
「1914年2%の信徒たちは、戦争に参加することと、また安息日の問題が、SDA教会の教理と合わないことを宣言したので、ドイツのSDA教会から除名された。」―カトリック紙Paulinus,3月9日
ヨーロッパ各国のSDAの指導者たちは、信徒が戦争に参加することを奨励した。そうして、「1888年の使命」を信じ、キリストを自分の義としてすべての戒めに服従しようとした信徒たちをSDA教会は除名し、迫害した。その結果多くの信徒たちが投獄され、国によって処刑された。
当時の世界総会総理、A.G.ダニエルスの宣言文「・・・私たちの立場は各自が良心に従って決定すべきである。・・・私たちは戦争が起こることを残念に思い、戦争に反対する。しかし、私たちは各自が自分の良心に従って政府当局に対して自分の立場を決定しなければならない。・・・」(Report of the meeting with the opposition movement (July 21-23, 1920),pp 37-39)
「各自の良心の問題」これこそが、SDA世界総会が戦争の問題に対してとった態度であった。しかし、私たちの良心が「神の律法」に固くつながれていないのなら、私たちはその良心に従うことによって罪を犯すことになる。教会の心臓部である世界総会がこのようなあいまいな態度をとることによって、神の民が神にたいして罪を犯すことを是認したので、教団そのものがその罪の責任を負わなければならなくなった。
女の残りの子、最後の教会の特徴は、「神の戒めを守り、イエスの証をもっている者たち」(黙示録12:17)である。
「・・・・しかし、主は部分的服従を喜ばれず、もっともらしい動機によって彼がおろそかにしたことを、不問に付されないのである。神は、人間が神の要求にそむく自由を与えておられない。主は、イスラエルに言われた。「めいめいで正しいと思うようにふるまってはならない。・・・・あなたはわたしが命じるこれらの事を、ことごとく聞いて守らなければならない」(申命記12:8,28)。どんな行為の決定に当たっても、われわれは、その結果が有害かどうかではなくて、それが神のみこころにかなっているかどうかをたずねなければならない。「人が見て自ら正しいとする道でも、その終りはついに死に至る道となるものがある。(箴言14:12)」―人類のあけぼの下巻306ページ
1920年―フリーデンソー会議
ドイツ、フリーデンソーのSDA神学校において、SDA指導者層と戦争に反対したために除名された人々の話し合いが持たれたが、物別れに終わる。1922年に開催される世界総会において再度話し合いを持つことを約束する。
1922年―世界総会(サンフランシスコ)
除名された人々が再度話し合いを求めるが、門前払いされる。この時アメリカで出版されていた証の書をすべて持ち帰り、自分たちの置かれた立場を研究する。
1925年(7月14日~20日)
ドイツ、ゴタにおいて、戦争に反対したために除名された人々が集まり、組織が結成され、信仰の原則が公式に採択される。
1929年(1月11日)
ドイツのイゼルンハーグンにおいて「IMS・SDA・RM」(国際宣教協会セブンスデー・アドベンチスト改革運動)の名で登録、許可おりる。(申請は1928年)
1936年(5月11日)
ヒットラーの秘密警察によって、ドイツ政府は、「IMS・SDA・RM」に属するすべての財産を没収し、組織は解散させられる。この時、SDA教会員の密告によって、IMSの多くの指導者、青年たちが強制収容所に送られ、殺された。
1939年~1945年―第二次世界大戦
SDA教団はこの時も第一次世界大戦の過ちを繰り返した。
各国でSDAの信徒たちは、戦争に参加し、SDA世界総会はこれを是認した。
「かりに人が主のご要求を離れて、自分で義務の標準を立てる自由があるとすると、人それぞれに合うさまざまの標準ができることとなり、支配権は主のみ手から奪われてしまうことになる。人間の意志が最高権威とされ、高く聖なる神のみ旨―神の被造物に対する愛の目的―は尊ばれず、軽んじられることであろう。
人々が自分たちの道を選ぶ時はいつでも、神に敵対することになる。彼らは天の原則と戦っているのであるから、天のみ国に入ることはできない。彼らは、神のみこころを無視して、自分たちを、神と人との敵であるサタンの側に置いているのである。」―祝福の山64ページ
1948年―
「IMS・SDA改革運動」オランダ、ヘーグの総会において、本部をアメリカにおくことを決定する。
1949年―
アメリカに本部を登記するが、この時、当時の秘書、ドミトル・ニコリッチ(ルーマニア生まれ)は、独断で「IMS」という名称を除き、「SDA改革運動」という名称で登記する。また、※「委任投票制度が認められる」という文面も同じように独断で登記する。
1951年―オランダで改革運動の世界総会開催
ドミトル・ニコリッチが、正当な手続きによって自分が総理になれないことに異議をとなえ、10人の代表者たちと共にその会議を放棄した。この11人は、1949年のアメリカでの登記を勝手に自分たちのものとし、教会の財産を全て奪い、分離した。この時、分離した彼らはニコリッチを総理として選び、現在「SDA改革運動」の名称でアメリカバージニア州に本部を置き活動している。(日本支部は埼玉県)残った14人の代表者たちは、コーゼルを総理として選び、「IMS・SDA教会改革運動」の名称で引き続き活動し、現在はアメリカジョージア州に本部を置くにいたる。これらの事件に関しては、公式な議事録と当時の参加者たちの証言が残っている。
※ 現代、この二つの組織における、教理的な違いとして、「SDA改革運動」(分離した側)は、「後の雨」が「日曜休業令」の前に降ると教え、「IMS・SDA教会」は、「日曜休業令」の後に「後の雨」が降るというSDA本来の教理を信じ教えている。
※ 委任投票制度とは、いろいろな事情のために世界総会会議に出席できない代表者が自分の投票権利を出席できる代表者に委託する制度。
※ 「IMS・SDA教会」は、SDAの先駆者たちが信じ、確立した「教団の信仰」(初代文集「堅固な土台」参考)を、今も尚、保持し、教える唯一のキリスト教会の教団である。現在約130カ国以上に教会を持ち、約3万5千人以上の教会員がいる。








